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鋳 鍛 彫 漆 箔 房 心・技 各部の名称


古来、我国甲冑師は、各地で一派を組み、その名を惜しむ心意気を秘めていました。

古くは熊野打の名が、吾妻鑑(あずまかがみ)、名月記、太平記等にみられ室町時代の春日(かすが)一派は奈良でその名を高め、紀州の雑賀(さいが)派は、独特の冑をつくり、雑賀鉢(さいがばち)の名を残しています。

戦国時代以降は、岩井派、明珍(みょうちん)派、早乙女派が隆盛となり、その流れが各地に散って数多くの名作を残しました。
乱世の武将にとって、甲冑は唯、身を守る武具というより、武勲栄達を願う信仰の対象でもありました。八幡座(はちまんざ)、玉垣(たまがき)等が示すように、神聖視された神殿とも見立てたようです。天照皇大神、春日明神、八万大菩薩の神号を刻むことは、古く南北朝のころから行われ、武田信玄の諏訪法性(すわほっしょう)の冑は、前立に諏訪上下大明神の神号が切ってあったといいます。

その心を受けて、甲冑師も武士の心に負けず、誇りをかけて製作しました。
今、至誠の精神を古への名作の心に託して、あくまで壮美な男子の夢を作り続ける平安武久です。

その昔、貴族、武家社会で、我子の立身出世を願う心と尚武の習俗から発した端午の節句は、今や全国的な民俗行事となり、武久の鎧兜もその一端を担ってきました。

名作を映すことは、名将の心を今に映すことです。ひいては永遠に変わることのない男子の精神美を創り続けることを心している平安武久です。